2018.09.04
オトナの近場18切符。後編/2両編成の軌道。細川和紙と私的NEO民芸運動。「ハッ」とする伝統。
富岡製糸場を後にし、実は今回の「弾丸近郊旅」に出る元々のきっかけ出会った目的地『小川町』へ。神田にある都営新宿線の小川町ではない。埼玉比企郡の小川町だ。高崎駅のホームに入線してくる2つドアの2両。丸刈りの制服や、自分の体ほどあろう大荷物を持つお婆ちゃんらとともに、駅の一番南の端に、肩身狭そうに存在する小さなホームから「八高線」に乗り込む。
遠くに止まっている古い車両を眺めながら「あんな列車が入ってくるのだろうか?」と内心少し期待していたが、入線してきたのは今時のローカル線然とした、ステンレスのディーゼルの車両である。
小さな住宅地や、長閑な田園風景を眺めつつ1時間ほどで辿り着いた小川町駅。実はこの街、関東を代表する『和紙』のメッカなのだ。「細川紙」と呼ばれるその伝統的な和紙製造技術は、現在国の「重要無形文化財」の指定を受けている。西武線を使えば、実は池袋から一本で来れるこの和紙の街を、人々は殆ど知らない。かく言う私自身も、ふとしたきっかけで先日和紙についてちょっと調べるまでは知らなかった。何度か車で付近を通ったこともあるのに、だ。
駅前の至るところに和紙工房と古い家屋が立ち並び……というのが、下調べ前のイメージだったが、来てみれば、ごくごく普通のコンパクトな郊外都市といった風情で、西武線とJRが乗り入れているにもかかわらず、西日が差し始めた駅前には全くと言って良いほど人影がなかった。
永い間、斜陽産業としてひっそりと呼吸を続けてきた和紙文化は、日本各地で絶滅危惧種の魚のように細々と時代の流れの淵で生き延びてきたというのが現実だろう。これは、和紙文化に限らず様々な伝統文化にも言える。
この町の行政も携わっているらしい『和紙作り体験』をHP上に見つけた。しかし、「1週間前から予約が必要」「申し込み用紙が必要」と、まず観光で「フラッと来て和紙を作ってみたい」という、私のような軽い気持ちの来訪者には残念ながら対応していない。ぶらり旅、あるいは海外からの観光客が、和紙の素晴らしさを見て触れて、感動するまでのストーリーを生み出するには、現状ややハードルが高いと言えるのかもしれない。もちろん、こういったものは施設を運営し、人材を確保するコストを見込んだ来訪者数があって成立するものなわけだから、よそ者が何かをいう筋合いなどはない。けれど、日本人はもちろん外国人観光客も、和紙の魅力を感じて、訪れたくなるような観光地化が進めば、この和紙という「観光資源」で大いに盛り上がる可能性もありそうなだけに、少し残念に思えた。
時折雨に打たれながら、夕方の街を歩く。台風が日本列島を通過していた。酒蔵を少し覗いたりしながら、駅前界隈で唯一営業している一件の和紙屋を見つけた。和紙作りの現場を見たり、触れたりできなくても、茶道で使う「懐紙」という四角い和紙をどこかで1束でも買って帰れたら今回の訪問はそれで良し、と小さな折り畳み傘を畳みながら考えていた。
ところが店に入った瞬間、今まで見たことのない、美しい和紙の数々に思わずときめいてしまう。人生で「紙」を「爆買い」する日が訪れるとは、この日まで思いもしなかった。染めの鮮やかさと、和紙ならではの素朴感。日本の伝統文化好きならきっと魅了されてしまうだろう。サイズも、畳の半分以上はありそうな大きなものから、ランチョンマットくらいのものまで。燃えるように鮮烈な赤から南国のビーチを思わせる青。渋いねずみ色から、藍染のような色気のある紺色。幾何学模様のようにも見えるパターンと滲んだグラデーション。一枚一枚、見ていて飽きない。気付けば、元々買う予定だった前出の和紙の他、余分に5千円ほど衝動買いしてしまった。
例えば泊まるホテルや、乗るタクシー、着るシャツに至るまで『新しいもの』に対して「良い」と感じる感性は時代や場所に関係なく常に普遍的なもである。が「古いもの」の中に「新しさ」「かっこよさ」「美しさ」を見出して、「良いなあ」と感じる感性は、今の我々がやや失いがちなものではないかと、最近思うことが多い。
「民芸運動」をご存知だろうか。極々簡単にいえば、大正期から興った「日常で使われるようなものの中に美と価値を見出し世間に知らしめる工芸品に置ける芸術運動」といったところだ。名もなき職人が作った各地の素晴らしい伝統工芸等を取り上げ、その価値を高めようとする=「美意識のブランディング」とも言える活動は、例えば「地域活性(創生)」という、いわば現代社会の課題でもある概念とも非常に親和性が高く、この時勢に非常にこそ合っている筈だと、信じて疑わない。
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2011年の震災以降からだろうか。私はもともと旅が好き性分で、だんだんと地方の素晴らしいものを見つけては愛で、細々ながら誰かに伝えるという酔狂な趣味に少しハマり始めた。勝手に『ネオ・民芸運動』なんて、冗談半分で呼んでいたりしたのだけど、私の場合は「器」や「和紙」といった工芸的プロダクツばかりでなく、いわゆる「酒」や「食べ物」なども含まれるから、いわゆる彼らの「民芸」とは範疇がまるで違うのだけれど、とにかくこれらとの出会いが、私の旅心に火をつけ、さらには旅を何倍にも豊かにしてくれている。
しかし、こういうものは、誰かにその良さを伝えようにも、『ハッ』とさせられる感覚的、あるいはストーリーとしての「フック」がないと、なかなか共感を得られるものでもない。
少し話が飛躍するが、美術館でひび割れた桃山期の茶色く薄汚れた茶碗を見て「美しいなあ」なんて思う人は、十人に一人いるかいないかというところだろうか。反面、静嘉堂文庫や藤田美術館の「曜変天目茶碗」の青く煌めく姿は、誰が見ても美しい。どちらも国宝の芸術品である。しかし、前者の茶碗に「美」や「価値」を見いだすには、ある程度の「心の経験」と、そこにたまたま合致する美意識がその人にあって、初めて思い起こるものである。
オシャレ、美しい、かっこいい、おいしい、心地よい・・・そう言った直感に訴える「フック」こそ、今、日本の地方や伝統文化には必要なのかもしれないと、最近痛感する。それはある意味、「エントリーモデル」であったり、「初心者用」というものがあるべきだと思うのだ。例えば、この日、和紙について深いことを何も知らない私が直感的に色鮮やかな和紙に魅了されたのは、まさにその「和紙自体の伝統や深み」ではなく、「美しい色合い」という「知らない」が故の直感的感覚からだ。
これは、私の好きな日本酒をにも言えることで、酒好きのオヤジが、鍋物などに合うからと自分の好きな「生酛のぬる燗」なんかを無理やり勧めたところで、多分普段カシスオレンジやグレープフルーツサワーを飲む若い子達にはほぼ共感を得ることはできないだろう。しかし、同じ鍋物を前に、フレッシュで酸味や甘みのある無濾過生を、敢えてキンキンに冷やして一口飲ませたりすると、「あれ!?美味しい!何ですかこの日本酒?なんかメロンみたい!」なんて話になり、「日本酒」に対してマイナスのイメージを持っていた人の心が変わることが多いのだ。
「ん!こういう日本酒なら飲みたい」→「日本酒がうまいと思うなんて私もオトナになったな」→「和食食べながら洒落た店で日本酒なんて、ちょっと粋かも。」
という具合に結構若者や女性はハマって行く。(何を隠そう実は私自身も昔は日本酒が嫌いだった。)あとは、酒蔵を見学したりなど「旅のストーリー」の中で美味いその手の酒を味わうことも、かなり人の心に響いたりするものだ。
今、時代が流れてゆく中で、素晴らしい伝統文化が生き延び、発展してゆくには、色んなことを、色んな人の気持ちになって、更に言えば「外国人になって」「初心者になって」イメージしてゆくことが、何より大切かもしれない。
2020年のオリンピックに向け、モノの魅力、街の魅力を伝える仕組み作りに毎日苦心されている方も多いことだろうと思う。暗いことを言えば、東京で2度目となるオリンピックを終え、2021年には経済的「ダークエージ」が訪れる、とも予測される。
北は北海道から南は沖縄まで。観光地にゆけば日本人よりも外国人の方が多い場所がなんと多いことか。「観光」という分野でこの国は、すでに一定の成功を収めていると言えると思う。
さて、そこからさらに一歩入った、「香り高い文化的」や、「アート的価値」。「美しいもの」から「奥の深いもの」まで、日本のモノの素晴らしさを伝えらたなら、経済にも当然良い影響が起こるだろうし、日本文化自体のの価値も上がるというものだ。
・・・文明開化の象徴・明治の世界遺産「富岡製糸場」を見た後に、「和紙」という、今や『小さな産業』となった和紙の街を歩いて惹かれた有益な旅は、台風が去った夜に最寄駅で終わりを迎える
そして、早速小川の和紙を晩酌の膳に取り入れ、富岡と小川から抱えてきた普通酒で、富岡の刺身こんにゃくをいただくのであった。