2019.04.12
無施釉陶器の悦楽。料理を「立てる」無作為の作為。
出光美術館で行われている、六古窯展に行ってきた。
何故備前のような、何処と無くジジくさい無釉の焼締陶器に、私が惹かれるのか?
一番の理由は、
『どんな食材を盛っても、大抵美味そうに魅せてくれる』というところ。
秋田の物産館で買って来た、
①ナスの花ずし×備前焼
②人参のいぶりがっこ×越前焼
帰り際に別のお店で調達した食材で、
③菜の花とホタルイカのアヒージョ×常滑焼
④ガツ刺とネギのレモンとだし醤油×伊賀焼
陶磁器そして、アート作品と呼ばれるものには人間の『作為』が、必ず存在する。
勿論、これらの器にもそれは当てはまるのだが『炎と降りかかる灰』が人間の手の届かない所で、器の風情を決定的に決めるという点において、『作為』から最も遠い場所にある器とも言えるのだ。
このような『自然の風合い』と『料理』が調和した様が『美しい』のはやはり理にかなっている。
それは、カウンターの木目や、ロウソクの炎が食を美味そうに魅せるのと同じ道理である。
そして、同時にその器自らは存在を強く主張せず、
『盛られたものを美しく引き立たせる』のです。
…ほら。ジジくさい、土くれのような器が、ちょっと格好良く見えて来たでしょう?
良い器と美食・美酒の世界へようこそ…😄