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2018.11.29

大分を行く。①蔵を巡り、九重の森。星空の晩酌。20181128

空港から続く海沿いの道をまっすぐ走ると、それを「半島」と呼ぶには地形的に幾分鋭角さに欠けるようにも思った。
歩く人はほとんどない。静寂さと、どことなく神聖ささえ漂う森や集落を左の車窓に眺めながら、時折小雨の降る国東半島を半周する。
海沿いを北端あたりまで来たところで、違う道を通って南下しながら、100km以上先の宿の方向へとハンドルを切る。
道程、4つの酒蔵に立ち寄った。東京ではなかなかお目にかかることのない、地元の酒を3つの蔵で買い求めることが出来た。今宵の愉しみだ。
 かなり厚い曇の先にある太陽が、遠い山の稜線を色づかせながら右の窓に沈んでゆく。刻一刻とそのグラデーションが濃くなる山間の道を、紙風船のように華奢な新車のレンタカーが、ひたすら東南へと走る。
途中で、ナビの目的地が、別の場所を示していることに気がつく。
「まあ、ここまで来たら、もう少し遠回りして向かうのも良いだろう」。
くじゅう連山の山々を抜け、時折現れる集落や、嘘みたいに狭く細い林道に時折戸惑いながら、今後再び人生で通るかわからない、初めての道のドライブを愉しむ。
 長い尻尾まで入れると、メゾンカイザーの「バケットモンジュ」くらいの長さはあるカワウソが、車のハイビームにその黄金色の毛を光らせ、短い足を細かく動かし道路を横断した。急ブレーキを踏んだ。夜間ドライブ用に眼鏡をかけていなかったら「九州の山奥で、走るフランスパンの幽霊を見た」とでも思ったのかもしれない。慌てて「持ち場」の川に降りて行こうとする、そのあまりに愛嬌溢れた彼の姿を見られただけでも、今思えばこの「遠回り」の甲斐は十分にあった。
温泉地を抜け、つい先々週あの有名な「竹灯籠祭り」が開催されていた(正直、見てみたかった…)竹田の辺りから、徐々に角度を目的地方面に軌道修正をする。
更には熊本・阿蘇をかすめ、ようやく深い森の宿に着いたのは、実に空港を出て4時間半後だった。こんなに山らしい山道を何時間も走ったのは何年ぶりだろう。
背の高い、木々の深い黒さと比べれば、空は幾分明るく見える。先ほどまで厚く覆っていた雲は殆ど無くなっているようだった。車を降り、予想外の寒さにライトダウンを羽織る。
到着するまで、つい忘れていた。九州内陸部の夜は寒いのだ。10年ほど前、宮崎から阿蘇を抜け列車で鹿児島に向かう途中、阿蘇駅のあまりの寒さに、「何かの事故で列車がこのまま来なかったら俺は凍死するに違いない」と、本気で心配した時のことを思い出した。
 その寒さと引き換えというべきか、森の空気が恐ろしく美味い。黒く、冷たく、純粋な空気を鼻と口から思い切り同時に吸い込みながら、空を見上げた。
チェックインのバンガローまで歩く途中、見慣れたカシオベア座の周りには、間違いなく普段東京で見える星に加え、いくつか見知らぬ星が小さく煌めいていた。
 今日の宿は、ここだ。今流行りの「グランピング」なんていうような気の利いたものでもない。
何だか、分かるだろうか? そう。「貨車」だ。成田に向かうバスの中で宿を調べていて偶然見つけ、即予約した。多少隙間風があるのはご愛嬌で、石油ストーブを灯せば極度の寒がりの私が、ものの5分でシャツ一枚になれる温度にまでなった。

「旅人」と豪語しつつ、実は恥ずかしながら「寝台列車」に乗ったことがない。(夜行列車には嫌になるくらい乗ったけれど)だから、列車の中で宿泊するのは多分人生初だ。子どもの頃に感じたワクワク感を隠せない自分にふと気がづく。隠すつもりもないが。

 周りには繁華街どころか、最寄りのコンビニまでは車でも30分。酒場歩きがライフワークである筈の私が「それでも構わない」とここに宿を決めたのは、この空気と、空、そして、「九州という場所」だからこその理由がもうひとつ。
先ほど、杵築の酒蔵に立ち寄ったついで、スーパーマーケットに入った。
 今日び、巨大ショッピングモールに行けば手に入らないモノを探す方がもはや難しく、夜中にワンクリックで注文したボールペンが大げさな箱に入って翌朝届く物流時代だ。にもかかわらず、東京では味わえない美味いものが、九州のスーパーマーケットには、必ずある。賭けてもいい。つまりそれが、「理由」だ。
早速、「酒蔵直仕入れ」の酒を5本並べる。自然の冷蔵庫の中を歩いて来たので、十分に冷えている。
「松の露」。「西の関」。「ちえびじん」。
「普通酒」に、「にごり酒」に、酒粕から作られる「粕取り焼酎」まで。
若い人たちの舌にはなかなか馴染まない並びかもしれないが、綺麗な味の純米大吟醸を頂くより、こういう宴は、むしろこういう酒に限る。
「コップ酒」晩酌を覚悟だったが、西の関の酒蔵で「薩摩焼」のぐい呑を手に入れられたのは思わぬ収穫だった。
さて。アテだが、前出「九州スーパーならでは」のひとつ。それは地鶏の「刺身」が、まるで東京のスーパーで例えるところの「マグロ刺身」のように当たり前に、店頭に並んでいるということだ。
すりニンニクと生姜が付いていれば完璧だ。更にはスーパーには必ず地元の小さな醤油が売られているので、これにつけて頂く。東京では料理屋でさえ殆ど生の鶏の扱いがないのを、「文化の違いだから仕方がない」と片付けるには、あまりに惜しい。それだけ九州の生の鶏は美味い。
刺身は、「りゅうきゅう」である。沖縄の「琉球」と語源にどう関係があるのかは、この料理を教えてくれた大分出身の知人も知らなかったところだが、大分や近隣の福岡、宮崎以外の町では、あま知られていない絶品郷土料理である。
ゴマと、醤油みりん、酒など(食べ方はそれぞれらしい)を加えて、いわゆる鮮魚の「漬け」として頂く。刺身の保存食の一種としては、福岡の「胡麻鯖」と近いとも言える。
あいにく、みりんは持ち合わせていたかったが、大分の醤油、そして酒は存分にあるので、まあ私の中ではこれで合格だ。数分漬けて、粕取り焼酎を、炭酸で割って頂く。これが美味い。
さらに、鳥の炊き込み飯のおにぎり。見た目普通の「鶏の炊き込みご飯」が、何処で食べても信じられないくらい美味いのが、この「大分」なのだ。
ちょっと焦げ目のついたものを、あえて選んでみた。
ツマミらしいツマミに、大分・宇佐市、瀬戸内産「アミ」を頂く。わかりやすく言えばシラスのように小さな「エビ」の塩漬けである。一応生物学上のヘンな理由で「エビ」には分類されな買ったと記憶しているが、その理由はここでは割愛する。
案の定、「海の味」プラス「圧倒的な塩辛さ」で、地元で親しまれるような普通酒には抜群の相性。しかし、いかんせん塩分が強いので、量は食べられず、明日白米でも買って残りをご飯の具にして食べる手も有りかと考える。
・・・私はこの文章を、そこそこに酔っ払いながら書いている。後で多少手を加えることだろう。
しかし、このポリ容器と安っぽい瓶の画を見て「贅沢だ」と思える人がもしいたなら、本物の「味」の分かる人に違いない。
かくして、大分九重の山間の古い貨車の中。蔵を巡り手にした酒と、スーパーで買った九州の美味・美酒を頂くという、「豪勢」な宴は続く。
 酔い覚ましに外に出て、井戸水を飲んだ。すぐさまその寒さに「貨車」へ戻り、そして薄く窓を開けて、外に流れる小さな小川のせせらぎと、木の葉を揺らす風音が聴いた。それはまるで、この地の食と酒を愛でる賛歌のようだ。
続く・・・?

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