2017.07.16
2017−7−15 流星ワゴン。気仙沼に行く。
「ブログ」というのはリアルタイムか、それに近いものを書くにようにそもそもの特徴である。振り返ってみると、殆どリアルタイムなものを書いていない。先ほど呑みながらふとそんなことを思ったので、今日はかなり久々オンタイムで今日の出来事を書いてみようと思う。
とは言え、長い旅と一日中のドライブで疲れ、既に散々酒を呑んだ深夜のビジネスホテルで書いている訳だから、明日になって消してしまいたくなるかもしれないし、こうして書いている途中で睡魔に負けてしまうかもしれない。まあ、とにかくなるべくあまり考えず、無理に長いこと書こうとせずさらさらと書いてしまおうと思う。
冒頭から昨日までの成り行きを省略して話すが、「カクカクシカジカの事情」で、仙台で買うハメになった中古のオデッセイに乗り、芭蕉の愛した松島に宿を取り、私の愛する居酒屋でさんざ好きなものを食べたのが昨日のこと。
朝、東松島、石巻、女川、南三陸町を経て、今夜は岩手県宮古辺りに居・・・・る予定が、その距離の半分程度しか進んでいない気仙沼(しかも気仙沼より少し手前の南気仙沼)のビジネスホテルの一室に居る。これがまず、現状の報告である。
何故まだ気仙沼なのか。沿岸沿いの色々な町を訪れる度に復興に向け変わりゆく風景と、震災後足踏みしている風景の両方が、必ずどの町にも存在している。最短ルートで走るつもりが「そういえばあの辺りはどうなっているのだろう」と気になり迂回したり、時々海に釣り糸を垂らしているうちに気づけば日が暮れていたというのがその理由だ。
釣り糸?そう、その話をしなければならない。実は震災の2011年頃には、「魚釣り」というものに全くと言ってよい程興味がなかった。ところが翌年2012年、突如として魚釣りにハマり始めることになる。元々ハマりだしたらとまらない性格である。きっかけは、「釣りたてのサバの刺身を食べたい」ということと「海でも見ながらぼおっとしたいなあ。」というどうもその時期ならではの気分が重なったのだと今考えれば思う。昨晩訪れた大衆居酒屋は、まさに20代の自分に生サバの美味さを教えてくれた罪な店であって、ぼおっと人生について考えたいと思ったのは、震災もきっかけの一つであるから、これは東北と「無関係」では無いとも言える。
しかし、ご存知のように、多くの無実の人々が亡くなり、多くの大切なものが無慈悲な津波に引きずり込まれたこの悲しい海に向かって、釣り糸を垂らすという気持ちには、ここ数年到底なれなかった。
だが、そんなタブーを未来永劫引きずり続けることは、新しく前に向かおう動き続けている町を見ながらやはり間違っている、何処かで転換点を持たなければと。震災直後から、各港への水揚げのニュースは復興の象徴として、常に東北の希望の象徴となっていた。「海が元に戻る」ことは、すなわち港町の復興に大いに影響をするわけで、昔のように、海に行けば釣り人が堤防でヒマなため息をついている姿がそこにあるとすれば、或は別の地域から釣りにくる人間が居るとすれば、それも小さな復興の印ではないだろうか。「この豊かな海で、魚を釣る日が必ずそのうち訪れる。」心の中で、思い続けて、2017年の夏がようやく訪れた。
震災から6年。釣りをするかしないかは来てみて判断するとして、とりあえずコンパクトな釣り竿とリール。僅かなルアーとクーラーバックをカバンに入れて、東北の地に降りたったのが昨日ということになる。
インターネットの情報で「石巻」の釣りスポットを検索した。東側の、女川寄りにあるその堤防は、地形的にも評判的にも間違いなく良さそうなフィッシングスポットだ。車を湾岸沿いに走らせると、やはりまだまだこの町の復興は半ばだと感じつつも、やがてその先に見えて来た真新しく巨大な石巻魚市場の迫力に圧倒される。「漁業の基盤も復活して、この町は更に復興に加速度を増すだろう」と思った矢先、道路は土ぼこりの立つ凹凸になり、目指した釣り場の入り口手前には「復旧工事中につき立入禁止・釣り禁止」という看板がこちらを睨んでいた。
「やはり、まだ釣りなど出来る状況では無いのだ」と肩を落とし引き返す脇に、地元の釣り人が何人も腰を下ろしている。堤防の先は駄目でも、その手前、漁船が並ぶ河口沿いの堤防では十分に釣りが出来る状態だと知り安堵しながら、第一投目のルアーを投げる。「別に釣れなくたって構わない。」これが本音だった。あの2011年4月、日和山公園から見た絶望の景色で今、ルアーを投じることが出来ることだけで感無量である。
5回ほど竿を振って、飛距離と、深さを確かめながら、「なんだ、折角ここまで来たのに釣れないじゃないか」と自らにぼやきながら、釣れるか釣れないかなどということを超越した充足感のまま、車を女川に走らせる。
前年の3月に訪れて、駅前のあまりの発展ぶりに驚いた女川の町だったが、その頃はまだ飲食店は数える程しかなかった。決して市街地が大きい町ではないので、中心部(中心部とは言っても、駅を中心に海に向かう扇状の200メートル程の規模だ)のかさ上げが早い時期に順調に進んだという点では、東北沿岸部において早期の復興を象徴する街並と言えるだろう。そのかさ上げの結果、遠い高台に見えた、かつて避難所として機能を果たしていた病院が、ほぼ同じ目の高さに今は見える。今回の訪問で驚いたのは、女川を代表する名店が、見事に女川駅前から港に繋がる200メートル居ないの場所に集合していたということだ。震災当時から町の復興に尽力していた、かまぼこで有名な「高政」。海鮮丼と言えば皆が口を揃えてその名を呼ぶ店「おかせい」。女川・大盛グルメの代表格「金華楼」個人的には、何処の店にも想い出が詰まっている。
実は、この日の午前中に東松島の「支那そばや」でラーメンを食したばかりなので(ラーメンの鬼・故・佐野実氏の暖簾分けの店。支那そばやと言えば私の地元湘南から全国区に知名度が広がった店だ。東北に迄来て食べる必要が有ったのか?ということではあるが、こちらでも人気店になっているということが嬉しくてついつい入ってしまったのだった。)大盛りを頂くわけにはいかなかったが、「おやつ」なら入るだろうと、「高政」のかまぼこと、おかせいの直売で見つけた活きた殻ウニ(160円!)を買って車の中で頂く。言うまでもなく本当に美味い。ウニは殻を砕き、黄色い卵巣部分を上手くとりわけ食べるのにかなり苦労はした。しかし、ウニという生き物が何故美味いのかという理由に改めて気づかされた。殻を割ると、中は昆布だらけなのだ。まさに「生ける昆布だし」である。これで美味くなかったらウソだろう。
女川の東の堤防で軽くルアーを投げた。今まで来たことの無い道の、知らない堤防だ。何度も来ていても、結局何時も最短ルートで行ったり来たりしてしまう為、実は知らない場所が多いことを思い知らされた。曲がりくねった山道を通り、また別の小さな漁港でルアーを投げる。4つ目の漁港で地図を見たら、そこは既に南三陸町だった。この町にも何度も訪れた。しかし、震災2年後以降、沿岸部の様子はそれほど変わった様子は無いように思えた。勿論、町全体は前に進んでは居る筈だが、港に面した場所は、相変わらず土を運ぶダンプの往来が激しく、恐らくこの町も、かさ上げをした上での開発が行われているのだろう。目に見えて変わっていたのは、「南三陸さんさん商店街」が少し場所を移動し、規模がかなり大きくなっていたことだ。これは非常に嬉しいことだった。色々な店が入り、利便性という点においても、観光で来た人々は十分に満足出来るものだと思う。しかし、やはり地元の人が憩いに、買い出しに来るいわゆる「町の商店街」という機能を有しているかと言えば若干疑問は残る。町のおばあちゃんがヒマそうにいつも立ち話をしているような、地元の人が集う商店街に、これからじわじわとなっていって欲しいと、願わずにはいられない。
さんさん商店街でお気に入りの酒を買い、車中泊を覚悟で車を北に走らせる。宿は取っていない。たまにはそれも良いだろう。その為の3列シートミニバンとも言える。寝心地だけはロールスロイスやフェラーリより間違いなく良いだろう。途中の魚港でルアーを投げているうちに、西日が僅かにオレンジ色を帯びている。ここから気仙沼は目と鼻の先だ。その先に行けば、震災以降、何人かの仲間が出来た陸前高田だ。こんな連休のさなか、突然邪魔した所で迷惑になるのは目に見えているから、実は、敢えてこちらに来ていることは誰にも話さなかった。「無計画な旅は、誰かを巻き込んで迷惑をかけるより一人で困った方が良い。」持論だ。たまたまコンビニでバッタリなんてことがあったら驚くだろうな、などと思いながら、気ままな珍道中は「気仙沼」に差し掛かる。
この町にも、色々想い出が有った。某ミュージシャンやFMのDJや、雑誌編集者、旧来の友人らを乗せて、赤いボルボでこの道づたいに初めて訪れたのが、確か2011年の6月頃だったか。見覚えのある船着き場に到着し、路肩に車を泊める。右に見える立派な観光ホテルに当時は一時避難している被災者の方々がいた。その前で、著名なギタリストの彼が演奏をした。(自分はちょっと喋って、後はぼおっと見ていただけだったけれど。)そして、今車を停めたこの路肩の辺りには、真っ黒に焦げた大きな船が居座って道路を塞いでいたのだ。
その時に、町を案内してくれたのが、気仙沼市観光課主幹のH山さんだった。5年前、有楽町で行われた気仙沼のイベントで久々に会った彼が薦めてくれたのが「気仙沼ホルモン」だった。「これも美味しいけどね。今度また泊まりで気仙沼にホルモン食べに来てよ。他にも、美味しいものあるしね!」。翌年、ナレーターの友人と突然気仙沼に訪れた時は、宮古に泊まる予定があったため短時間の再会だったが肩を抱き合って歓迎してくれた。
しかし、それがH山さんに会った最後だった。
「・・・H山さん。気仙沼ホルモン食べに来るの・・・随分、遅くなってしまいました。」
暗くなった気仙沼港を見ているうちに、今日はここから先に行くのは辞めようと思った。
気仙沼の復興のため尽力していた彼の訃報を聞いたのは、一昨年のことだった。
スマホで近くのホテルを押さえ(連休の初日、奇跡的に1件空きが出ていた)、気仙沼市役所や気仙沼駅のある市街地から川を渡り車で10分足らずの「南気仙沼」のホテルに向かう。
プレハブのような造りではあるが、出来たばかりの、とても綺麗な5階建てのビジネスホテルだった。フロントの脇には、被災した際の写真が飾られていた。古ぼけた鉄筋のホテルの2階の高さくらい迄が瓦礫で埋まっていた。
夜なので町の全景を全て把握することは出来なかったが、周囲は建物が殆ど隙間もなく立ち並び、津波に呑まれた町だと言われなければ気づかない人も多いだろう。しかし、立ち並ぶ建物建物の半分以上が真新しいプレハブか、比較的簡易な造りの店舗だったりするので、「昔からの港町」と言う風情をなかなか見付けることが出来ない。
これは自分の推測に過ぎないが、恐らく、市役所の有る北側の海に面した港の周りは、盛り土をした上で何かを作る(或は作らない)都市計画が行われていて一方こちらの南気仙沼駅周辺は、勿論、古い建物も所々存在するが、街全体としては、かさ上げをせずに新しい建物を建てる方向で動いているという印象がある。
ホテルから歩いて20分程の場所に、「新富寿し」という寿司屋がある。自分たちが最初に訪れた時には、震災で流された店の再建に向けて意気込んでいる話を、被災を免れたご実家で聞かせてもらった。被災地を応援に来たのにわざわざカレーまで御馳走になった。お礼も兼ねて伺おうと思ったが調べると21時閉店となっているので、着いたころには暖簾である。仕方がない。下手にお邪魔するより、次回ゆっくりおいしい寿司を頂く方が絶対に良い。
先ほど気仙沼市に入る時に偶然通って気になっていた「仮設」の集合店舗の居酒屋に向かうことにした。途中の交差点に有る、塗装のはげた歩道橋は、恐らく震災前からそこに存在していたものだということが一目で分かる構造物だった。きっと、この歩道橋の上の所まで、海の中に浸かってしまったのだろう。そんな様子を、津波を知らない子供達が伝え聞いて、理解出来るのかどうかと考えるといささか未来が不安にもなった。
あいにく仮設店舗の居酒屋は満席だった。被災地のお店が混んでいると、入れなくて残念な反面、少しホッとするのが不思議だ。歩きながらもう一件、気になる居酒屋を見つけたので入ってみる。いい店だった。晩酌セット1200円は、酒が2杯。お通し、小鉢、刺身、そしてアテが3品ついている。あり得ない安さである。地元の日本酒を2杯飲み、全てを平らげた後、生ビールと、お目当ての一品を頼む。
・・・そう言えば、「オデッセイ」って、重松清の小説「流星ワゴン」の中に出てくる車なんだよな。確か、亡くなった人が乗れて、過去に戻れる話。
残りの日本酒を呷る。座ったカウンターの、隣の空き席と自分の席の間に、丁度運ばれて来た「気仙沼ホルモン」を置く。実際そんなに何度も会った人ではないけれど、やはり、酒も手伝ってか、泣けて来る。
「H山さん、横に座って、一緒に是非。」
ビールを呷る。そういえばH山さんは酒を飲まないのを思い出した。
「ホント遅くなりました。やっぱ美味いですねえ。本場の気仙沼ホルモンは。」
しんみりと店を出て、「南気仙沼駅」という名の交差点に差し掛かった。google mapを見ると、確かにそこには「南気仙沼駅」という印があるものの、線路も無ければ、駅舎も無い。あるのは広い道路と信号だけだ。
きっと彼がいたら、「そうそう。昔は、丁度この辺りに駅舎があってねぇ・・・」と事細かい描写で説明してくれただろう。きっとあの黒ブチ眼鏡の奥の目を細めながら。