2017.03.12
2011年4月。震災21日後の記憶。
あの日から「もう6年」。「まだ6年」。自分の中には、両方の感覚が共存している。
その日の午後、車で鎌倉市内の県道を走っていた。
最初は車体が揺れているというより、万年故障のポンコツが不機嫌でも起こしてエンジンの回転トルクが上下でもしているのかと思った。
しかし、ハンドルを握りながら前方を注視しているとこともあろうかアスファルトが波打つように数百メートル先まで大きく波打っているように見える。
「まさか?」と目を疑うのもつかの間、真上を走る湘南モノレールの柱と太いレールが道路と並行してうねるように揺れているではないか。
次の瞬間、前方にある2つの信号機の青いランプが、手前、そして奥と、順に消滅する。
「何が起こったんだ?」鎌倉山の広場にひとまず車を止め、ラジオに耳を傾ける。
割り込み放送が入り、かなりの規模の地震が東北方面を襲ったことを知る。
「東北・・・?!」数百キロ離れたここ神奈川でさえ、かつて一度も経験したこともないような揺れを感じたのだから、
これは間違いなく阪神淡路大震災クラスの大地震に違いないと、ようやく確信した。
夕方実家に寄り、停電状態の家に住む家族の安全を確認してから再び所用で車を走らせる。
深夜、宿泊先ではずっとテレビを見ていた。数分置きに鳴る地震速報の音。
時々軋む柱、ガタガタと揺れる照明。明け方、信越地域でもM6.7クラスの地震が発生する。
次々と発表される、とても信じがたい情報と、宮城沿岸部の火災の映像。
明け方、ベッドに入り目をつぶっても、やはり眠ることなど出来なかった。
数日後、どうやら原発が大変なことになっていることに世間が大騒ぎし始める。昼のニュースで建屋の屋根が吹き飛ぶ。正しい情報を認識せねば・・・情報に踊らされてはいけない。且つ、あらゆる情報を疑ってかからなくてはいけない。過剰反応する人々、無関心な人々。自分の認識は今どれだけ中立なのかということを、ここまで常に自問自答し続けたのは、このときが初めてだったと思う。
次の日も、その次の日も、衝撃的な被災地の情報が次々とテレビ画面に映し出される。
自衛隊のヘリが空から撒いた水が、空しくも風に流され霧のように原子炉建屋をかすめる様子はまるで特撮でも見ているかのように見えて何だか現実感が無い。しかし、次のニュースでは死者行方不明者という現実的な数が、日を追うごとに倍、倍となり、やがて1万人を大きく超える。
「この国は・・・どうなってしまうんだろう・・・」
あの時の心境から6年。何故か、3.11以前に起きた出来事の記憶の方が、
不思議と近い過去のように思える時が有る。それだけインパクトが大きい日々だったということなのかもしれない。
実は、震災の数年前、自分は一度火事を経験している。近くで不審火の噂が流れていたが、まさかそんなことが自分の身に降り掛かろうとは当時思いもしなかった。思い出、財産・・・本当に色々なものを一晩で失った。もしも悪い偶然が重なれば、あの火事の日の行動次第で、自分はすでにこの世にいなかったかもしれない。
思い起こすと、2011年3月は、仕事や日々の生活のことが、どこか上の空でおろそかだったように思う。五体満足で生きている自分が居て、テレビや新聞で、あの辛い時期の、何十倍もの苦痛と、計り知れない悲しみを背負いつつ、避難所で不自由な生活をしている人が無数に居るんだということをいつも考えていた。「何か出来ることはないだろうか。」「自分はどうしたらいいんだろう。」そういう思いが頭の中の何割かを常に占めていて、「出来ることの少なさ」と、「出来ないことの多さ」に無力感を感じて苦悶していた時でもある。
「被災地支援に乗り込んで何もできなかった。」という話や、
「かえって迷惑をかけている」という情報が、メディア各方面から流れてくる。
震災からしばらくの間は、「安易に被災地に行くのは良くない」という論調も出ていた。一応は人前に出る仕事をしている手前、もし被災地に乗り込んで人に迷惑をかけるようなことがあってはいけないし、場合に酔ってそれは自分だけの責任では無くなるだろう。
しかし、朝起きると、情緒に任せて今すぐ車に食料や日用品を詰め込んで、
下道を選びながら被災地になんとか辿り着くルートはないだろうか?とニュースとネットの情報を見ながら日々想像する。
そして、決めた。3月一杯はとにかく自制をして、
4月1日になったら「100パーセント迷惑をかけないで支援」に行くという作戦をシミュレートした上で、一人、東北に旅立つということを決めた。
その選択が最良だったかどうかは今でもわからない。
4月1日には既にある程度の食料がいきわたっていたり、
最低限とはいえ避難所へアクセスするためのインフラは整っていたので、
結果、誰にも迷惑をかけずに東北の地を訪れるタイミングとしては、悪い選択ではなかったのかもしれない。
小さな避難所や、自宅が津波の難を逃れたお陰で自宅にとどまっている人々の中には、
食料や生活物資が届かず困っている方も多いという現状をSNSを通して多数見て取れた。
生活用品、食料品、生活雑貨、嗜好品に近いもの。なるべくありきたりの避難物資でないものを
思いついたらメモ帳にリストアップし、大きな旅行鞄に詰めこんで飛行機で青森・三沢に降りる。
三沢・八戸も大きな災害はあったけれど、岩手・宮城・福島の沿岸部に比べれば町自体は
平常の生活を取り戻しつつあった。大きかったのが石油タンカーが丁度前日に八戸に接岸され、
空車のレンタカーも、つい数日前迄不足していたガソリンもこの街にあった。これで現地の人々に必要なガソリンや、緊急で必要な車の割分を損なわなくて済む。この意味は非常に大きかった。
いざ被災地へ向かう。
八戸に、懇意にしている友人の酒蔵が有り、電話で何度か話していたとはいえ、やはり顔を見ての久々の再会には、ジーンと来るものがあった。
酒蔵の壁にも漁船が突っ込み、川から上ってきた津波で浸水したりと大きな被害を受けてはいたものの、
時間があれば十分に再建が可能なレベルと見え、心から安堵した。
通い慣れた八戸の街に一泊して、美味しい魚介類と酒が「いつも通りに」とは行かずとも頂ける有り難さにジンと来るものがあった。
翌朝友人に別れを告げ、八戸市街のスーパーで届ける物資を更に補充。
リアシートとトランク満載で後ろが少し見にくくなったレンタカーで4月2日の早朝、沿岸部を南下した。
震災発生から20日経ったとはいえ、自然の猛威に打ちのめされ、
とても現実とは思えない町の様子は、テレビの画面を通して散々見て来たつもりだった。
しかし、生でいざその惨状を目の当たりにすると、その悲惨さは想像を遥かに超え心にのしかかる。
打ち上げられた無数の船。
あらぬ方向に飛び散った線路や橋脚。
町の最奥部まで瓦礫と化した市街。
建物の基礎の残骸が無ければ、ここに家や生活があったのかさえ分からないような無残な集落。
紙屑のように潰れて3階建のビルの上に載ったままの車。
そして、布の掛かった担架に遺体を載せ、沈痛な表情で道路を横切る自衛官。
これが・・・何と言っても、心に堪えた。
往復400キロの距離、無意識に出る、言葉にならない嗚咽のようなため息を、一体何回ついたのだろう。
途中、何度か避難所を見つけ立ち寄ろうとしたが、なかなか中に踏み込んで、
挨拶をして、物資を渡したいと言う勇気を持てなかった。
思い起こすと、「悲しみに暮れる被災者は、こんなものを快く受けとってくれるだろうか?」「詰まらぬ手土産片手に冷やかしで様子を見に来たんだろ?と思われてしまうかもしれない。」凄惨な街を通り抜けいざ来てみると、あの時はそんな不安に急に駆られたのだと思う。
前日、インターネットで確認して頭に叩き込んだ道路情報と実際の道案内を見つつ、時に大幅に沿岸の道路から逸脱して内陸深くを経由ながら車を走らせる。ただでも多くない海沿いの道路が、所々断絶されていたのだ。
階上、久慈、野田村、普代村、田老町・・・震災前迄は殆ど聴いたことの無い地名は、皮肉にも震災関連の活字や映像で極々見聞き慣れたものとなっていた。
わざわざ飛行機で青森を経由して被災地に向かったのも、やはり多くは東京方面から復旧支援や物資が届くにあたり、北の町ほどその絶対量が少なかったと感じたからだ。
東北西岸や北からの支援が到達し難いエリアは、地理的にやはり岩手の北部や中部だった。やはりテレビで見る限り、宮城に比べれば、人口密集地でなく遠い分、メディアの露出度も、支援の手も少数は少ないように思えた。
出発前、途中、どこかの避難所で物資を渡す機会がなければ、ある町まで行こうとなんとなく決めていた。「どこに届けるか?」という場所を決めるのには、ある意味、何らかの理由や「縁」という理由付けが必要だった。どこの町も不足しているものだらけの中、一つを選ぶのは困難ではないかと心の中で感じてはいたのだ。
血縁も無ければ訪れたこともないその町には、普段自分が好んで良く呑む、美味い酒を醸す蔵が有ったのだ。
早朝に八戸を出て、結局宮古市に着いたのは、やや日が傾きかけた時間だった。
通ってきた田老や野田村と同じように、町全体が瓦礫に覆われ、
道路部分の脇に瓦礫を寄せてなんとか「車が通れる状態にしたばかりという市街地を、
神経を使いながらゆっくりと走る。
大きな遊覧船が町のど真ん中に船底を晒している。
大量の漁具が、高い丘の林の中にに無数に突き刺さっている。
車も、家の屋根も、大きな冷蔵庫も、郵便局の看板も、一つの「瓦礫」として混在している。
地図で調べた酒蔵の場所には、車で侵入することが困難だった。道が道でくなっている場所と地図を照らし合わせると果たして自分の位置が地図上の認識で正しいのかさえ疑問だった。
町を一周回ったところで、酒蔵から結構離れた界隈に避難所らしき小学校を見つけた。
「よし、ここにしよう。」
自衛隊の車両や設備が既に校庭の奥に確認できた。
ある程度の物資は届いているだろうことに安堵した。
普通乗用車に積め込んだちっぽけなものが、
「ちっぽけなもの」で済むであろうことにホッとした。
校庭の脇に車を止め、制服を着た男性に声をかける。
「御免下さい。ここは、避難所ですよね?」
男性は羽田・青森を経由してやってきたという見ず知らずの一人の男が突然、
「多分、役に立つものもあると思うので、是非物資を受け取って欲しい」という申し出に、
少し驚きつつも快く受け入ててくれ、
同じ制服を着た恐らく役場の人であろう数人を呼び、荷物のすべてを受け取り、本当に丁重にお礼を言ってくれた。
その場で思わずこみ上げそうになったけれど、
気持ちを押し殺して、
「こんなものしか持ってこれませんでしたけれど、
東京や関東の人間は、被災地の皆さんの力になりたいと常日頃思ってます。
大変でしょうけれど、頑張ってください。」一番伝えたかったことをなんとか言い切る。
帰り際、男性が「何故わざわざこの避難所に?」と聞いてきたので、
実は良く飲む好きな酒があって、その蔵がたまたま宮古市内の酒蔵の酒だったということ。
変な動機なのだけれどただそれが理由だという旨を告げると、
「そこの蔵人ならこの小学校に避難してますよ!呼んできましょう!」
と言うので、まさか蔵から結構離れた場所にあるこの小学校に偶然避難されているということに驚きつつも、何だか柄でもないことをしている自分が
突然恥ずかしくなってきて、
「ああ、いや。いいです。多分、またいずれ来ますから。宜しくお伝えください。」
と言い残し、グラウンドから瓦礫の町を見渡せる小学校をそそくさと後にした。
「変なものだ。」
と、帰りの車に乗りこみ急に冷静に思った。
被災地支援の方法ならいくらだってある。
それに、何故ここに来たのかという理由がどうもきまりが悪い。
岩手沿岸部には案の定泊まれる宿が無かったので、内陸部の盛岡に車を走らせた。
電灯も殆ど無い山中で車を止めて見上げた東北の長い冬の星が、
前にハワイの町はずれの海で見た最もきれいに思えた空より美しくて驚いた。
6年が経った。あの頃と比べると、勿論街は大きく復興したと言える。けれど、東北に行けば必ず今も、全く前に進んでいない問題、復興の見通しさえ立たない場所、癒えない人の心、答えの出ない議論・・・。必ず現地に行かなければわからない、東京に居ては見えない問題が今もたくさん見えてくる。
勿論、東北の問題ばかりを考えて毎日生きることは、我々には不可能だが、あと5年、10年、或いはそれ以上の時間がかかる復興であることを、僕らはちゃんと頭の中に入れておかなければいけないと思う。毎年毎年、節目の日には東北に起きた悲劇をどっしりと我々皆が心で受け止めて、そしてその時にある問題を、「心」をもって考えなければいけない。
6年前の4月1日。あの衝動や感情。そして被災地で目に焼き付けたものを、決して遠い記憶にならないようにしなければと思い、ここに記す。2017.3.12