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2016.03.11

東日本大震災から5年の節目に。女川町を通して感じたこと。2016

 

かつて毎月のように足繁く訪れていた東北も、今では年に数度訪れる程度になった。そういう意味では震災を少しずつ風化させてしまっている心が自分の中にもあるのだと、この5年という節目に改めて感じる。

石巻、陸前高田、南三陸町、気仙沼、塩釜、八戸・・・この5年で、色々な場所にご縁が出来た。

女川町も、そのうちの一つだ。
穏やかで、静かで、小さな港町。

自分が最初に訪れたのは、震災から1か月後、2011年の4月。
同じく甚大な被害を受けた宮城を代表する港町・石巻に出向き、現地の役場の方々と会い災害の現状に打ちひしがれた。市内の絶望的な街並みを抜け、国道398号線を東に進む。
万石浦という大津波からは、かろうじて逃れた地域の様子にほっとしたのも束の間。
やがて緩やかな下り坂から、再び目を覆いたくなるような凄惨な光景が突如広がる。ここが女川か・・・。

扇状地の最奥部分、つまり平野部で最も海抜の高い位置にもかかわらず、津波の力で建物がなぎ倒されている。町の中心部全体が、海の下に沈んだということを悟る。
瓦礫は道の両脇に積みあがり、徐行をして避けても車のバンパーやタイヤが細かい瓦礫に接触する。
無数のビルが横倒しになり、その屋上面が壁のように道路上に立ちはだかっている。

高台にある病院から町を見下ろすと、とても現実の光景とは思えない、何だかジオラマを見ているような錯覚にさえ襲われる。
愛する町の変わり果てた姿を見つめ、手を合わせている人々がいた。
心の中でこの風景を自分の育った町に置き換えて見てみる。岩手や宮城の惨状を数々見て来た後とはいえ、耐えがたい沈痛な気持に襲われる。
ましては身内や友人を失った人が無数に居るという現実に、神様など居るわけがないではないかと心の中で呟く。
自分などがこの場所に来て、一体どうしたらいいものか。途方に暮れながら見た静かな海を鮮明に覚えている。

震災後、10回位この町を訪れていると思う。実は、今この記事を書いている3日ほど前にも、
友人たちと女川をを訪れた。

壊滅した町の中心部は、時間を置いて訪れる度、時に僅かに、時に大きく復興が進んでいる。
そんな姿を見て、この高台で手を合わせながら、いつもしみじみと復興した街並みの立体地図を、心でなぞるのだ。
2016年。あの時町から見上げたその病院の高台は、土地のかさ上げによってかつてのように「見上げる」という感じではなく、今はこの丘から連続して続く台地のように感じられた。

 

震災直後は、石巻や女川まで鉄道が戻って来る姿を想像出来なかったものだが、昨年、仙台からこの町まで線路一本でつながった。

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海から緩やかに駅まで続く通りは、まるで東急沿線の駅前と見まごうばかりの洒落たプロムナードに変貌を遂げつつある。

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かつて地元の人々に愛されていた店が、新しい場所で復活を遂げる。この町を気に入り、外部からやってきて根を下ろした人々とともに、新しい町の未来がまさに今、描かれ始めている。

 

日本各地をずっと旅しているのに、あの頃東北の沿岸部には殆ど来れなかったということを、今でも自分は深く後悔している。震災前の長閑な女川町やその他の町々の姿を、直に目にしたことが無かったからだ。
知っているこの町の初めての姿は、瓦礫まみれだった。
きっと、その前の風景を知っていれば、復興に向かってゆく町の姿を見るのが、今よりずっと嬉しく感じられていたはずなのだ。

 

この節目で自分が何を言いたいかと言えば、まだ被災地の町を訪れたことがないという人には、是非今からでも復興半ばの東北の街を訪れて、目に焼き付けてほしいということ。

沿岸部の国道を走ると、今でも無数の仮設住宅に明かりが灯り、2011年と変わらない生活がいまだに残っている。

瓦礫が片付いた更地の多くは、かつての町が「リセット」されてしまったままの状態で、今も寒空に晒されている。

5年の節目も、まだまだ未解決が多いの被災地だからこそ、今から応援することは決して遅いことはない。

むしろ記憶の風化が進んでいくであろう、ここからが大事なのだ。

 

最初の女川では、瓦礫一つ片付けれず、ただこの町を去る自分の無力さにただ打ちひしがれた。けれど2度目の女川で、東北を応援するラジオ関係の友人たちと女川を訪れて以降、
「女川さいがいFM」というコミュニティラジオ局を通してこの町に友人や仲間ができた。ささやかながらこの町の為に、世界中にメッセージを伝えたいという、恰好たるモチベーションを持てたということが自分の中では大きかった。
この町で震災を乗り越え、これから世界に大きく羽ばたいてゆくであろう若者たちがいる。
この町に残り、この町を愛し、この町の復興を支えてゆく人たちがいる。

女川に限らず、沿岸部の復興はどこの町も志半ばだ。
その志を見届け、応援し、まるで自分のことのように思える町が、
一人一人に、一つ二つあっても良いのではないかと思う。

残念ながら、僕らがこの町とのつながったきっかけとなる「女川さいがいFM」は、
今月末を持って5年間の歴史に幕を閉じる。

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何かが進んで、何かが終わる。残念だけれど、仕方がない。けれど人が繋がり、その町を愛する人がいるというだけで、町はおのずと蘇生し復興してゆくはずだ。一人でも多くの人が被災地に足を運び、その町に思いをつなげるきっかけの連鎖を、東北の町々に広がってゆくことを切に願いつつ、この2016年の節目、改めて深い祈りをささげる。

2016.3.11

 

 

 

 

2011年。3回目に女川を訪れた時に撮った動画の一部を写真に収め、

2009年当時の地図サイトの位置と照らし合わせた写真を集めてみた。

自分が見てこれなかった町を振り返ることで、改めて被災地への想いを、今日心に留めたいと思う。

 

a女川町 同じ場所4

海から遥か離れたなだらかな高台。石巻方面から女川町に入った所の下り坂。

色々な人を車に乗せ、この道を通った。石巻の惨状を見た後に、連れて来た誰もが再び言葉を失う場所だった。

 

a女川町 同じ場所2

この場所に公園あったということを、2011年の写真からは到底知ることが出来ない。

 

a女川町 同じ場所5

屋上まで津波に呑み込まれた「避難場所」。1000年に1度の悲劇は、我々の常識で考え得る安全という概念ごと深く呑み込んだ。

 

a女川町 同じ場所6

建物の有った場所に建物が無く、横になった別の建物が何処からか押し流され、道路に突き出している。

 

a女川町 同じ場所7

空を向いていた鉄筋コンクリートの屋根が道路に横たわる。黄色いマンホールの位置の他に、

何一つここが同じ場所だと証明するものがない。

 

a女川町 同じ場所3

海の方角に向かうカーブの先に、見えない筈の遠くの山が望める現実。

 

a女川町 同じ場所1

上半分が無惨にも姿を失っている商店。既に海水に呑まれた後の高い位置で、いかに津波の破壊力が強かったのかを物語る。

 

 

 

今一度、

心、被災地の復興とともに・・・

 

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